令和6年(2024年)4月28日(日)旅館松島140周年祝いのつどい
松島の歴史 江戸~明治、大正、昭和、平成、令和 今日までの歩み
明治17年(1887年)12月27日 横浜高島町で(今の桜木町)遊郭「松島楼」を開店
初代 山本政秀は安政2年小田原藩の家老の家に生まれ、
19歳の年、廃藩置県で武士の道は閉ざされました。
東京牛込で警察署長の職を頂きましたが
板垣退助と共に自由民権運動に奔走東京圏追放となりました。
横浜に流れ来て高島町(今の桜木町)で遊郭を開業遊女4人で始めました。
開業にあたり武士としての家名を妹に譲り自らは島田を名乗りました。
よって現在島田名乗って四代目となります。
「松島」という屋号は商売をするに当たり松さんという人が力になってくださったので松と島田の島を合わせ「松島」と名付けたと2代目祖父から聞いています。
宮城県「松島」の出身ではありません。
間もなく移転命令が出て真金町に、大火にあって永楽町に明治30年には当時のお金で3,520円の税金払っていたと横浜名誉図鑑に掲載、100人の大店になりました。
大正元年この蒔田を隠居所とし大正12年関東大震災の年の5月に心臓病で亡くなるまで正義とは何かと昔の仲間と論じ合っていたそうです。(横浜近代史辞典より)
初代が亡くなる時、祖父は明治天皇を看取ったというお医者様に診てもらったそうです。祖父としては精いっぱいの親孝行だったのでしょう。
それを聞いていた近所の女医さんは「お金の力だったのでしょう」言われました。
正義感の強さと小田原の家老であり北条早雲の家臣の末裔だったからではないかと思いたいです。
祖父はその時お医者様が診療にあたり「枯葉が散るが如く」と一句読んだそうです。手の施しようがなかったのでしょう。
二代目 女将の祖父。明治21年生まれ。
初代の妹が島根の松平出羽守の三男の家老の家に嫁ぎました。
次男であった祖父(15歳)を跡継ぎにと考えた初代は親と一芝居、自分の妻(叔母)が死にそうだと
ひとり横浜に行かされ来てみれば叔母は元気で出迎えて、親通し話が付いていたことが分かりました。
祖父は当時の様子私に「一人船に乗せられ横浜に着くまでなんとも心細かった」
話してくれました。「好きな勉強をやらせてやるから」の条件で養子となる決断をしたようです。
横浜商業高等学校4年生の時代)に3番の成績で入学。当時シュウマイで有名な崎陽軒、今はありませんが野沢屋という伊勢佐木町にあったデパート、ホテルニュージーランドなど横浜でトップクラスの 御曹司は皆横浜商業出身と聞いています。
女将の祖母は母5歳、叔父が4歳の時、関東大震災で26歳で亡くなりました。梁の下敷きで火が回って来てどうしても助けることが出来なかったとその思いを祖父は話してくれました。
十月十日のお腹にいた赤ちゃんと共に助け出せなかった祖父から聞いた「私を置いていくのか」いった祖母の言葉を聞き、私はやるせなく、いつまでも心に残っています。
祖父が自ら火葬し子供の骨も拾った事も話してくれました。今も日本各地で起きる残酷な震災、天災、地震国の宿命と思いますが、我が身も含め皆無事でいて欲しいと心から願わずにはいられません。
三代目、百合子 その後、後妻で来た祖母の妹が、20歳より共に歩んでくれましたので3代目としました。
戸籍上は母の1歳年下の弟(叔父)と夫婦になっています。
四代目、父は会津の人で母の所へ養子として入りましたが、旅館に入らず中学校の教員勤めで分家として近くに住みました。一男三女の末っ子で生まれた私が祖父母の養女として幼児期より育ち、
4代目として21歳より従業員0で松島を背負いました。育ててもらった恩は重くまた活力となって客室改造しながら26歳の年100年経った住まい50坪を建て替えました。
祖父は2年寝たきりでしたが新築した家が島根の姉夫婦の家にいるようだととてもうれしそうでした。(祖父の姉は同じく島根の松平出羽守の次男の家老の所広瀬町へ嫁いでいます。)
借金の嫌いな祖父でしたが、全額借金で心配しているかと思えば「資産に代わる財産だから心配いらない」と言って1年後安心したように目をつぶりました。90歳でした。
32歳で現在NTT、昔、電電公社と呼ばれていた時代、色々な職種が仕事で旅館や民宿を利用して夜中まで仕事をしていました頃。松島も沢山の方々にご利用頂きました。今度は客室の建て替えへと進み、
そんな中主人の上司の口利きで縁を頂き主人と結婚。翌年長男を授かりました。翌年2回め客室の建て替え、次の年次男を授かりました。そして次の年127坪の建て替えに挑戦、
5年で全館新築といたしました。その間寝不足と疲労で体調を崩したことで主人は会社を結婚7年め退社。 旅館経営に専念することとなりました。
商売も順調でしたが、この先料理旅館にしなければ、都市旅館は生き抜けないと 当時の日観漣の月報にも掲載されているのを見て、12月、1月宿泊の少ない時期、客室も使えると色々な方の情報を
得て、平成3年12月1日思い切って15年しか経っていない住まいを壊し、料理屋に建て替え初代が別荘としていたこの場所の名前を取って「料理処 松風苑」としました。
主人が会社を退職してくれたことで、料理屋が出来たと感謝です。その間も37歳で死産、どうしても3人子供が欲しかったので、平成元年40歳の2日前に男の子をもい一人生みました。
2年程は大当たり旅館もフル回転でしたが、平成5年バブルの崩壊、平成21年リーマンショックでほとんどの旅館がやめていきました。
そこへ2年後平成23年3.11の東北の大地震9割キャンセルに計画停電。店を手放すことになるかと思う程でした。そして令和2年から全世界が止まったコロナの追い打ち、
令和4年の秋口より少しずつ宿泊も回復。政府の補助金。ゼロ金利に支えられ今があります。
皆様に支えられ何とか昨年の12月27日で140年目に入りました。借りたお金は返さなければなりません。
料理旅館は横浜では一件となった今。二代目が祖父が戦後、最初に取り組んだのが遊郭で形どられた池に鯉が泳ぐ日本庭園を復元。日本文化を大切に和の文化を残すべき51畳と39畳の大広間、
食事場所は畳で椅子テーブルですので履物を脱いでのご利用ばっよとなりますので大変楽かとも思います。個室もご要望にお応えできます。
皆様に受け入れられる店づくり、ご期待に添えますよう頑張って参ります。今後共に末永くご愛顧お引き立ての程宜しくお願い申し上げます。
舞台は4代目女将が辿った楽しい世界をご覧いただきます。
司会進行:横浜唯一輝く女流講談師、神田あぐり(師匠は人間国宝神田松鯉 弟弟子に神田伯山) 横浜市立南高等学校卒、女将後輩です。
第一部 七々扇舞踊と冨久丸姉さん率いる横浜芸者復活勢揃い
勝海舟が名付け親「七々扇流」勝海舟が踊りの上手さ惚れた七々扇小橘(こきつ)
(この名は勝海舟の父親が小吉(こきち)であったことからこの名を付けたが師匠が
女性だったので、もじっ小橘(こきつ)になりました。)
女将 七々扇秀太紀 四世家元 七々扇花瑞王・嫡男「七々扇瑞希」・七々扇宇女美・小学生が2人(古川菜の乃・岩崎結菜)「京の四季」
第二部 古典芸能
浪曲:東家一太郎 自作 蒔田の吉良の物語
旅館松島の右の山の上に青山学院横浜英和がある所が蒔田城、
東条吉良のお城がありました。
今から530年ほど前北条早雲に守られ三代、四代に渡り孫娘
崎姫と鶴松姫娘がお嫁に来ています。
女将現在西尾の吉良とも交流を結び蒔田の吉良歴史研究会を立ち上げています。
浪曲で吉良を広めたいと師匠の故東家浦太郎さんに赤馬の殿様を作家にお願いして浪曲十八番などに出演していただきました。
この度は浦太郎さんの一番弟子の一太郎さんが2作目の蒔田の吉良の物語を作って披露してくださいます。
伝統民謡研究者:ちくわで、笛を吹く岡山の有名人、住宅正人 岡山在住 「桃太郎のからくり博物館館長・箱根金太郎博物館館長」
(浪曲師の玉川福太郎師匠が引き合わせて下さいました。その三ヵ月後福太郎師匠は事故でなくなりました。)
歌手:原田ひろし三吉演芸場で熱血ライブを毎月開催30年余
年忘れ松島演芸会に司会進行で平成12年より20年間ご協力頂きました。
落語:桂歌丸一門 歌春・歌助・歌若・歌蔵・枝太郎 大喜利でお楽しみ下さい。
平成4年12月1日料理処 松風苑開店祝い日 一周年記念で歌丸師匠に来て頂いたのが最初の出会い。歌春さんを除いては二つ目、前座からのお付き合いです。
師匠がなくなる2年前、師匠13回目のご出演。皆さん真打になられたので、私女将が「松島 おかめ」で師匠の前座勤めさせて頂きました。奥様「冨士子」さんの許可を得て!
その時の演目が「死ぬなら今」でした。私師匠を一番いじめた円楽さんになってしまいました。
第三部 松井誠特別舞踊ショー 「華の舞踊絵巻」
三吉演芸場で、三吉のお母さん本田玉枝さんに松井さんを紹介して頂き、三吉演芸場を私共のお客様でお弁当付きで2年連続させて頂きました。
お客様の要望で3年目もと思いましたら、三吉演芸場の建て直しに入り2年休業、平成10年杮落しで松井さんが1か月興行を最後に大衆演芸から離れ、
一躍大スターになりました。私が46歳の時が初めてお会いしたのが、三吉の楽屋でご挨拶させて頂きました。女将現在74歳、7月6日で75歳の年となります。